普段私達が自然について考える時、「人工的なものと自然なもの」「人為的なものとナチュラルなもの」と区別します。しかし、人間にとって最も身近な自然は何かと考えてみると、それは「人体」です。例えば花や鳥、動物など、自然というと私達は「外側」ばかりを考えてしまいがちですが、人体という「内側」に目を向けることは、自然の問題を考える上で大変重要なことなのです。今回は「日本と西洋の自然観の違い」について話をしますが、つまりこれは「日本と西洋では人体をどう見てきたのか」ということから始まる問題と言えるのかもしれません。
まず、西洋の例としてご覧頂きたいのが「ダヴィデ像」です。これはイタリア・ルネッサンス期の人体の理想を象徴した物で、特徴的なのは、これが青年であること、つまり「若さ」です。また「バランス」や「プロポーション」ということにも配慮がなされていて、最も美しい筋肉の均整が表現されているのです。一方、日本では歴史的に裸体像が極めて少ない中、例外的に肉体の理想を表現しているのが「仁王像」であり、特徴としては、壮年の肉体を寺を守るべき重要人物として門前に立たせていることです。「老成」あるいは「円熟」を感じさせるこの肉体は、西洋の青年の裸体像が、単に自然な成長の結果辿り着いた肉体美であるのに対して、戦いなどを通して鍛え上げられたことによって作り上げられた体の美しさが表現されています。
では次に、自然とはどう考えられているものなのでしょうか。中世の日本人にとって、自然とは絶えず変化をしていくものであり、恒常的なものはこの世には無いという「諸行無常」の自然観があり、人の暮らしもこれに習ったものでしたが、これに対して西洋では、自然と人間を明確に区別してきました。その違いを考える上で注目したいのが「庭園」です。西洋の庭園というと、幾何学的なデザインが特徴であり、自然界には存在しない「人工」が素晴らしいとされました。例えば、植物は鉢植えにして等間隔に配置したり、滝を作るにしても自然の中にある滝そのものを再現したとは到底思えないオブジェを作り上げました。
このように外界の事物が美しくレイアウトされ、そこで表現されたものは整然とした「プロポーション」でした。一方日本の庭園に対する発想を知る上で重要なのは、中国を起源とされる「奪天工(だつてんこう)」という言葉で、これは人工に対して天工(=天の巧み)を奪うこと、つまり自然と見まがうほどの風景を持つのがよい庭園であるという発想です。
例えば、植物に対する姿勢として「前栽掘り(せんざいぼり)」という考え方が10世紀に書かれた『蜻蛉日記』には記されており、これは「理想としている自然を切り取ってくること」が最も美しい自然の持込み方だというものです。また石に対する姿勢としては「乞(こ)はんに従う」という考え方が12世紀頃の造園書とされている『作庭記』にあり、これは「石の求めに従って庭に配置をせよ」というもので、「石の人格」を重視したものです。この発想は西洋の「切り石」に見られる、石に彫刻を加え配置することで庭にマッチさせるというものとは対称的です。このように、天と人との合作が日本庭園の神髄であり、私達日本人の自然観・風景観の中心となっているものなのではないでしょうか。
構成・文:宮崎伸勝/写真:黒須一彦(エコロジーオンライン)
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