茂手木潔子氏
講師紹介
茂手木 潔子氏
上越教育大学芸術系教授。山梨県生まれ。東京芸術大学大学院卒業後、国立劇場演出室にて伝統芸能の公演助手に携わると同時に、東京音楽大学非常勤講師を経て、現職。「文楽 声と音と響き」、「日本の楽器」、「おもちゃが奏でる日本の音」など著書多数。


1.はじめに
最近ある本を読んだところ、水について次のように書かれてあった。
「嬉しそうに笑っているせせらぎの音、時折聞こえる飛沫の音は小さな驚きの声、暗い谷間を流れる川の音は、しくしく泣いているよう。激しく逆巻く波音は、怒声や威嚇の叫び声、繰り返す波音は、眠りの世界に心を誘う子守唄、滝の音は朗々たる響き声。」(秋月さやか文 「音」 青菁社 1999年)
この文章は、秋月さやかさんという方が書かれている「音」という小さな本の中からの抜粋である。

私は長い間日本の音楽を研究してきた。日本音楽とのつきあいの中で感じてきたことは、秋月さんが書いているような水の世界は、じつは日本の伝統的な音の世界とはかなり遠いところにあるということである。日本人が聞いてきた水の音というのは、もっとダイナミックであり、生きるか死ぬかにかかわるような部分がある。強い音であり、雑音がたくさん入った音である。



2.芸能の象徴としての水
毎年3月。奈良東大寺では「お水取り」が行われる。奈良の人は、「お水取り」が始まると寒くなると言う。実際に、1200年前から続いている奈良の「お水取り」行事が始まると、この地では寒さがずっと増す。この寒さが過ぎると奈良に春の兆しが現われる。ちょうどそのような頃に「お水取り」は行われるのである。
この「お水取り」は、正式には「修二会(しゅにえ)」と呼ばれるお勤めである。「修二会」とは火と水の行である。1年の罪過を懺悔し、クライマックスである3月12日の深夜、1年間の無病息災を願って境内の閼伽井屋(あかいや)という井戸から若水を汲む。若水を汲むということは、穢れを清めるという意味である。

その後、「達陀(だったん)の行法」が行われ、ここでは松明をふりかざし火の粉を浴びる。心の穢れを焼き尽くし、新しい水で浄化するという意味がこめられている。

同じように、私たちが1年の始まりである正月に若水を汲むという風習は、健康によいという意味を持ち、古くから行われてきたことである。

また、水に関する芸能は非常に多い。酒造の世界では、かつては、1月14日に初めて水を汲み、その水を使ってお酒をつくると非常に縁起が良いということで、若水汲みが行われてきた。

前述した「お水取り」という行は、じつは、女性は中には入れない。二月堂の下までしか入れずそこにある格子は「結界」の役割を果たしている。
「結界」に当たるものは、じつは私たちの身の回りにはたくさんある。
鳥居を入るか入らないか、門をくぐるかくぐらないか、全て結界である。その中でも特に日本の文化には、川が結界の役割をしているものがたくさんある。一番身近な例では、私たちが何気なく行っている、何かを「川に流す」ことである。

また、人形浄瑠璃の世界に見られる「川に身を投げる心中」。これは川の中に入って、そこから別の世界にいくという意味である。このとき川は、世界を分けると同時に、そこに何かを流すと浄化されるという役割も果たしている。遮断としての川と、流すことよって清めるという川、そのような役割である。

そのような川の持っている役割が日本の芸能を特徴付けている。
「鳥追い」。夜、暗い中を子供たちが悪い鳥を追って川を何度も往復する。川の近くに行くと橋を渡って、橋の上で声を上げる。太鼓を打ちながら、悪いものを声や歌につけて、運んでいって川に流す。そして流した後は、静かに黙って帰ってくる。このような「鳥追い」や「虫送り」は全国各地にたくさん残っている。
また、不思議なことに、能や歌舞伎や人形浄瑠璃の演目、琴や三味線の曲には川の名がついた曲が多い。人形浄瑠璃以外にも川に身を投げる心中という行為は、芸能の中に数多く使われている。「道行」は死への旅路。「道成寺」も川を越えることによって蛇に変身する。川の持っている遮断、世界を変えるという役割が芸能の中で大きな役割を果たしている。



3.厄除け、祈願
昨年半年ほどドイツの古いカトリックの町に滞在していた。私はそこで、どうしてドイツでは歌いながら行列するのかについて調べていた。日本の場合は、歌いながら、唱えながら行列をする。歌と音楽に悪いものをつけて、歌や音に悪いものを運んで川までいって流すのである。ところがドイツでは、行列は山に向かって登る。しかも悪いものをつけて運ばない。自分がすでに病気なのか、自分自身が悪いものを持って山に向かう。自分自身が教会に行って治癒してもらう。キリスト教では、行列をするのは、信仰心を高めるためであって、厄は運ばないのである。私は、ドイツと日本のこのような違いは、とても興味深いと思った。

日本の音楽は、何もかも原点をたどると、全て厄除けなのである。
なぜ「お手玉」をするか。お手玉をするとお手玉に入っている小豆や石がお手玉をすることによって音が出て、それが厄除けになるのである。
どうして「ほおずき」を吹いたか。ほおずきの中に入っている汁や実が虫下しの変わりになっていたのである。あらゆることが、厄や虫よけにつながっているのである。これはとてもおもしろい日本の文化である。そこにはアニミズム的な宗教観が入っている。私たち日本人は、昔から全ての自然の中に神が宿るといった、自然と人間が共生している文化を持っていたからであろうと言われている。

また、日本はすべてまわりが海で囲まれている。周囲が水で囲まれている。台風が来る。雨も多い。湿気の中で暮らしているようなものである。したがって、伝統風習には水とのかかわりが非常に多い。能登の輪島で400年以上続いている御陣乗太鼓は、船出をするときに、安全を祈願して神社に奉納する太鼓である。

宮城県中新田町で行われている「虎舞」は、屋根の上で虎を舞う。これは中国の故事に乗っ取っているもので、「雲は竜に従い風は虎に従う」。虎は風の象徴。竜は水の象徴。
雲は竜に従い雨を呼んでくるので、家の火事よけの風習である。



4.水の音と暮らす
私は、ライデン国立民族学博物館で一枚の浮世絵をみた。それは、雨に濡れて急いで家に帰る家族を描いた浮世絵で、私がおもしろいと思ったのは雨を線で描いていること。そのたくさんの線を見ていると、まるで雨の音が聞こえてくるように感じるのだ。このことは、水と一緒に暮らしている日本人には共鳴できる描写だろう。

私たちは、雨の音を聞き、風の音を聞き、木立の音を聞き、それらを自分達の生活の音として取り込んできた。

例えば、「水」の響きと楽器の響き合いの例を「枕草子」から引用してみる。
「橋の板をふみならして、声あはせて、舞ふほども、いとおかしきに、水のながるるをとと、笛のこゑなどあひたるは、まことに神もめでたしとおぼすらむかし。(枕草子 135段 「新日本古典文学大系」 岩波書店 1995年第4刷)

この文章は次のような意味である。「橋を渡ってきて声を合わせながら雅楽を舞っている、それも良いが、さらに水の流れる音と竜笛(横笛)の音が合っていて、とてもすばらしい。」
雅楽の音色を楽しむだけでなく、その背景にある水の音と笛との調和を楽しむ、古からの日本人の感性がある。

私達は、雨の多い国に生活しているので、常に雨の降る音を聞いている。板屋に降りかかる雨の音を聞きながら、それが良い音だと思ったり、心理に不安を及ぼしたりする。しかし、それらが、楽器と一緒に響きあうという独特な世界、そこにこそ日本の音楽の音色の特徴がある。

次に、心理に不安を及ぼす例として、「紫式部日記」から引用してみよう。
「影見ても憂き我が涙落ちそひて、かごとがましき滝の音かな」。この文章の意味は、「鳥の声や滝の音に自分の身の寂しさを重ね合わせて、その音をかえって恨みがましく思う。」というものである。これも日常、私達が感じていることだろう。

百万遍念仏の数珠の音。新潟県村上市の坪根という地区では、江戸時代から、月に1度女性たちが大きな数珠を回して念仏を唱える風習がある。これは、健康祈願の行であるが、聞いていると、数珠の音が川の流れの音のように聞こえてくる。その音の上に念仏を唱えているようなのだ。数珠の音を本当に川の音として捉えているかどうかはわからないが、私は、ここにも結界としての川の音があるのではないかと、とても感動した。



5.水の響きを楽しむ
水琴窟のように、普段の生活のなかに、自分達の身近にある水の音をわざわざしかけをつくって再現しようとするのも日本人の感性だろう。
音楽や芸能の中では、自然の音を再現した楽器がたくさんある。

歌舞伎の「雨団扇」は、番傘に降りかかる雨の音を実際に楽器としてつくろうとしたもので、渋団扇に小豆や大豆をつるして、振ったりさすったりして雨音を出す。また、雷を表わすそろばんを大きくしたような楽器もある。
水から直接生まれた楽器もある。「うみほおずき」だ。昔の人はなぜこれを楽器に使ったのだろうか。「うみほおずき」は、巻貝の内臓。巻貝自身が虫下しの薬だった。その巻貝は東北地方の古墳から出土しているらしく、その当時からすでに薬として利用したと思われる。「うみほおずき」を吹くこと自体が子供たちの健康祈願になると思われる。ほかにも直接生まれた楽器として、貝のふえや「ほらがい」がある。
水が加わることで道具が楽器となる。「酒屋唄」で使う「ささら」である。ささらで桶をすりおろす。水がついていると桶と「ささら」(竹)と水が一緒にすりあわされて音が出る。コントラバスのような音で、酒蔵で働く人々にとって、この音は、とても良い音らしい。
しかし、残念なことに現在では、多くの酒蔵では桶は廃棄処分されてしまっているために、この音色を聞くことができない。私は、是非この音が再現できたらいいなと思っている。



6.結論として
音楽というのは私たち日本人の自然観をあらわす。なぜなら、音楽も含めて、音は全て自然のなかにあるからである。自然(じねん)。全てのものが自然の中にある。そして、音楽をつくることによって、伝統の中で育まれてきた水の音というものに対して非常に強い憧れや水音を聞き分けるという文化がある。水の音だけでも音楽ができる。このような文化は、他の国にはあまりないだろう。

水の音も含めて自然の響きにできるだけ近づけようという感性が音楽の中で働く。楽器も水音に近いものができたり、自然の音に近いものになったりする。音楽というもの自体、水と同様、非常に霊的な存在と考えられている。水への気持ちと音への気持ちに共通点がある。

水自体が非常に貴重であるために、私たちは、水に対して尊敬の念を持っている。
美しい水は美しい自然を育み、命をもたらす。それは人の命にもかかわることである。
音楽による自然表現は、自然とともに生き、自然を尊敬してきた私たちの祖先の考えの現われであると思う。本当にまわりを見ると音楽における水というキーワードは非常に多いということに気がつく。

私は、これからも音楽の中での水さがしを続けていきたいと思っている。

 
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