講師紹介

岩槻  邦男氏

昭和9年生まれ。
昭和38年京都大学大学院理学研究科博士課程修了。
昭和48年から京都大学理学部教授。昭和56年からは東京大学理学部教授、東京大学理学部附属植物園長等も務める。
平成5年退官後、現在、立教大学理学部教授。理学博士。
専門は植物分類学。



1.種多様性とは

生物多様性は遺伝子多様性、種多様性、生態的多様性の三つに分けて整理することができる。
このうち、「地球上に生物が何種類現存しているのだろうか」、という問いかけに答えるのが「種多様性」である。
ヤマザクラ、オオシマザクラ、エドヒガンなど、生物の種々相を「種」を単位として認識し、分類するのが生物学の常道である。
その方法にしたがって種の違いで表現する生物多様性を「種多様性」という。
現在までに生物学が認知している生物の種数は約150万種である。
しかし、これは、地球上の生存している種のごく一部で、実際には数千万以上か、億を超える数の種が実在していると推定されることもある。



2.地球生命系は一つの系

生あるものはすべて親から生きていることを継承し、その親もまた同じように先祖伝来からの生命を維持している。
生きているもののすべてについて、その生命の淵源を求めて時をさかのぼれば、ひとしく、三十数億年前と推定される地球上における生命の起源の時に到達することになる。
すなわち、現在生きている生物はすべて、地球上に生命が発生して以来三十数億年の進化の歴史をともに手を携えて生きぬ いてきた仲間同士なのである。

私たち人間は呼吸をし酸素を取り込む。
その酸素が常に供給されているのは、植物が光合成をし、酸素を放出しているからである。
私たちの生存のための活動は、このようにそのごく一端を見ただけでもわかるように、さまざまな生物と相互に関わりあって成立しているのである。
さらに、私たちと直接関わりを持つ生物が、他の種と別に直接の関わりを持つことを考えれば、種と種の関わり合いは、ヒトがそれを認知するか否かに関係なしに、広く深く展開していくのである。

いいかえれば、地球上に生まれた種はすべて、直接的、間接的に地球上の種をつなぐ環のうちに組み入れられており、地球生命系は一つのまとまった系として実在していることが分かるはずである。
三十数億年の進化の歴史を通じて、地球に生きる生命系は歴史的実在として確立されてきたのである。



3.絶滅に向かう生物種たち

生物多様性の保全が叫ばれるようになった背景には、現代、地球上に生きている生物種がものすごいスピードで絶滅しているという、極めて悲惨な事実が明らかになってきたことがある。

日本でも絶滅に瀕している生物種は決して少なくない。
1989年版レッドデータブックでは、日本の維管束植物(種子植物とシダ植物)は、自生種が約5500種あるうち、すでに絶滅してしまったものが28種、危うい状態にあるものが867種あると数えられている。
例えば、秋の七草の一種であるフジバカマや、キキョウ、ムラサキ、タチバナ、フクジュソウ、サギソウ、サクラソウ等も絶滅危惧種である。

野山で花を摘んだりするなど、もともと日本人は生活の中で野生の生物との関わりが深い。
現在もフクジュソウやサギソウは、開花の時期になると季節の風物詩として話題に上る。
しかし、現在人々が愛でるフクジュソウやサギソウは、そのほとんどが山野草店で購入されたもので、人々は一時は愛でるが、一年後には枯らしてしまい、季節になるとまた再び購入したりする。
野草の美しさを楽しむのは結構なことであるが、大勢の人々がこのような行為を行うことにより、販売店では自然下の植物を採取することになり、ひいては絶滅を招くことにつながっていく。
また、サギソウが生育する湿地などの開発や、生育地域全体の保護の難しさなどが、絶滅を助長しているのである。


フジバカマ

サギソウ

4.イチョウの木

東京大学付属植物園(小石川植物園)には、この植物園のシンボルツリーとされるイチョウの木がある。
一昨年、イチョウの木で精子発見100周年という記念フォーラムが行われた。
この植物園にあるイチョウの木は、今から102年前、種子植物にも精子があるということが発見されたそのイチョウの木なのである。
現在、イチョウは、その葉に含まれているフラボノイドが痴呆症の薬になることが分かり、ヨーロッパでは非常な関心を集めている。
イチョウは人間にとって有用な植物なのである。
日本人の生活にも非常になじみが深く、神社仏閣や歴史的建造物にはイチョウの巨木が植えられていることが多い。
街路樹としてもおなじみの木である。

 


じつはイチョウの木は、野生下では絶滅してしまった木である。
レッドリストのカテゴリーの中では、イチョウは野生絶滅種となっている。
生物学的にみると完全絶滅ではないが、栽培下で生存しているイチョウに該当するのである。
ではなぜ野生では絶滅しているイチョウが生き延びてこれたのか。

簡単にいうと、今から約2千数百年前、新石器時代が始まった頃から人々がイチョウを自然界からなくならないように一生懸命守ってきたからである。
当然その頃にはまだ自然保護や系統保全という言葉はなかったし、生物多様性を守ろうなどと誰も言わなかった。

イチョウは裸子植物の一種である。
分類階級の一番高い「門」でいうと、「イチョウ門」という門を代表する唯一生き残っている植物である。
門を代表するくらいだから他の種と違っているところも多い。
例えば、全国各地で見られ天然記念物に指定されているものもあるサカサイチョウ。
普通植物の茎は上に伸びるものだが、このイチョウは茎が下向きに伸びているのでこの名がある。
このような常識と異なっているところが、イチョウ門に固有の性質があるということである。
このようなちょっと変わった雰囲気というは、生物学で記述していくような科学的事実ではなくて、もっと全体的な雰囲気というのが、新石器時代の人々の目に留まったのではないか。
それで、畏敬の念を抱いて社寺等に植えることにより、イチョウが生き延びてこれたのではないかと私は忖度している。

元来、生物多様性の保全は、科学的な理屈よりも、人が自分達の生命に対する畏敬の念を誘うものであるという視点で維持されてきたものであろう。
30数億年にわたって命をつないできたのは人間だけではない。
現在、150万種認知されている生物種から数億を超えると推定されている生物種のすべてが、おなじように長い歴史をたどってきた。
我々は、たまたま人間になっているにすぎない。
DNAの並びが一つ変わっていれば、イチョウになっていたかもしれないし、O−157ではないとしても、大腸菌になっていたかもしれない。
他の生物になっていたかもしれない。
ということは、我々はすべての生物と姻戚関係にあるといえるのである。

生物の身体は細胞から成っている。
そして、人間の成人は約70兆くらいの数の細胞から成っているといわれている。
その細胞も元をたどっていけば単細胞にたどりつく。
互いにお互いがないと生きていけない関係である。
細胞の生があり、個体の生があるのと同じように、地球に生ける生命系としての生がある。
イチョウも生命系の一つの単位である。
先祖の人々がイチョウという生命系に何らかの畏敬の念をいだき、それがイチョウを絶滅においやらなかった。
ところが、現在の我々は生物に対して畏敬の念というものをどれだけ持っているのだろうか。



5.人里の自然

「自然」という言葉がある、そして「自然」の反語は「人為」「人工」である。
100%自然保護を行うということは、100%人為人工の行為をしないということ、つきつめると人間の存在をなくすことである。
しかし、自然保護を考えるとき、このように人間の存在を否定する人はいないだろう。

我々の先祖は、文明の発達とともに野生下での狩猟から農耕へと生活技術を発達させ、生きるために必要となる資源を確保するために、自然と折り合いをつけながら歴史を創ってきた。
ちょうど日本の弥生時代に相当する時期(約2500年前)から、「人里、農地」という新しい環境が地球上に展開することになった。
すなわち、「人里、農地」とは地球上にはっきりと人為、人工の影響が刻み込まれた最初の印であり、「自然破壊」の原点ともいえる。
我々の先祖は、農地をつくることにより自然破壊をして、開墾し作物を育て、生産効率を高めた。
少々人口が増えてもそれを維持できるだけの資源の提供ができた。
日本では、今でも農耕地は十数%で、あとの80%近くは、つい最近までは、二次林として非常に丁寧に維持管理がされてきた。
このようにごく一部の自然を破壊することによって生産性を確保しながら、自然と共生してきた
しかも今、我々は人里や農地を自然と呼ぶ。
人々は、常に自然となじみながら、自然と人とが共存する道を探しながら、農地=自然破壊をしてきたのである。
だから、きちんとした維持管理を行っているかぎり、我々はそこを自然と呼べるのである。

では、現在、生態系の維持が困難になっている状況で、我々はどのようにして、自然と人間が共生できる方法を見つければよいのであろうか。



6.砂漠の真ん中の緑

南オーストラリアにレイクリークという炭鉱町がある。
アデレードから北に向けて約600キロ、内陸の砂漠の真ん中にある町である。
レイクリークは良質の石炭を産出し、乾燥地であるため露天掘りで大量に採掘が行われている。
現在15000人という町の人口を支えるためにも良い環境の街づくりは不可欠である。
かといって、この乾燥地にどこかから水を運び込んでむやみに散水したりすると、蒸散速度の大きいことからやがて塩分が蓄積して、使用に耐えない塩分土壌となってしまう。
いつの日かこの地域にも雨が十分に降って緑豊かな場所になるかもしれない。
その時に、20世紀の人の愚行がこの土地を使用不可能に荒廃させてしまったと嘆かせることになってしまってはならない。

この乾燥地に街づくりをする根幹は、水の使用を最小限にして緑豊かな環境をつくることである。
南オーストラリアでは以前から乾燥地のための緑化の研究はすすんでおり、この街の人々も与えられた植物を指導通 りに育成し、緑豊かな街づくりに協力している。
まさに未来永劫を見定めた環境創生の好例である。



7.生物多様性の保全のためにまず我々がしなければならないこと

先祖の人々は、生きるために自然破壊をしながら、しかし、人間と自然の共生を考えてきた。
しかし、現代の我々は、ついつい、賢くなってしまった人間の知恵におぼれてしまって、本当の自然から自然の良さを読み取ることを忘れてしまったのではないかと思う。
私は、イチョウの木を見るたびに、この植物を先祖の人々が絶滅させてしまわないで、人間の管理の元で生き残してくれた知恵というのは、ひょっとすると2500年たった現代、文明の盛りを謳歌している私たちをに対して、先祖の人々が「自然とはこうつきあうんですよ」と教えてくれているのではないかと思う。
今、まさに我々は生物多様性の保全を考えてなくてはならないときに立っている。
我々人間が一つの種としてその他の億かもしれない生物とつきあっていく方法を探るために、30数億年という年月と地球という大きな基盤とを一つにみた生命系の中の一つの種、一つの個体として生きているということを、真剣に考えなくてはならないのではないかと痛切に思うのである。

 
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