石川哲氏
講師紹介
石川 哲氏
北里研究所病院臨床環境医学センター長。昭和7年生まれ。昭和32年東北大学医学部を卒業後、東京大学医学部眼科学教室入局。フルブライト留学生としてアメリカで研究。昭和40年ニューヨーク大学助教授を経て、同年、東京大学医学部眼科講師。その後、 北里大学医学部教授および学部長を歴任。現在、北里研究所病院臨床環境医学センター長、 日本臨床環境医学会理事長、日本神経眼科学会名誉理事長、他。


1. はじめに

 最近になり我が国でも、地球環境劣化とともにさまざまな見地から、環境に対して検討が加えられているが、特に私が永年にわたり指摘しつづけてきた健康への影響問題は、微量環境化学物質による生体影響の問題である。平成10年から科学技術庁の生活、社会基盤研究、生活者ニーズ対応研究として、「室内化学物質空気汚染の解明、衛生居住環境の開発」の研究班が発足し、現在まで極めて活発な研究が遂行されている。また平成12年度からは厚生労働省の厚生科学研究班では、シックハウス症候群の病態解明、診断治療法について研究が開発されている。私は、約30年前から、空中に散布される有機リン殺虫剤が微量であってもその地域住民に、神経系とくに感覚器の眼を中心とした健康障害をおこすことを指摘し、米国を中心に報告してきた。その研究成果は1996年になりやっと米国政府環境保護省EPAにより追試確認かつ実証された。我が国ではメーカーサイドによる小規模の実験がなされているが、残念ながら過去の我々の報告した内容とはあまりにかけ離れたスケールの研究で、ここに論じる必要もない。1996年以後米国政府は、有機リン殺虫剤を認可するには「急性及び慢性の眼・神経毒性研究がない」事実を臨床・実験にて証明しないと販売認可しないという厳しい規制を設けた(FIFRA Report)。

 今回は、たとえ基準値以下の微量でも、繰り返し接触すると生体に何らかの反応を生じ身体の障害を起こすことがあるということを中心に解説したい。さらに、急性毒性と慢性中毒では症状の出現のしかたが異なり、診断に苦労することを説明する。これらの微量中毒は、米国では、シックハウス症候群はProblem Related Building and House、欧州ではSick Building Syndromeなどと呼ばれている。日本では化学物質過敏症と呼ぶかわりに、「シックハウス症候群」という名称を用いている。両者に明確なライン引きはできないが、一応米国の呼び名に従い「化学物質過敏症」という名称を使用する。





2. 化学物質過敏症とは

 本症の定義については、1999年に米国政府(EPA)及び米国医師会AMA、米国政府消費者連盟CPSの合意事項(Consesus 1999)が発表され、大きなニュースになった。多種化学物質過敏症と定義されるためには次の6条件を満たすことが必要とされている。
    
1)慢性疾患である。
2)再現性を持って繰り返される症状を有する。
3)微量な物質暴露に反応する。
4)進行すると関連性のない多種類の化学物質に反応を示す。
5)原因物質の除去で改善または治癒する。
6)症状が多くの器官、臓器にわたる。
 これらの基準は、多種化学物質過敏症の研究のための定義として米国では一般に受け入れられている。しかし、これらの診断基準の使用は余り行われておらず、長く見過ごされたままだった。これらの基準は、米国、イギリス、カナダで、湾岸戦争従軍者では、湾岸戦争にいかない軍人に比べて2〜4倍ほどMCS患者が多いということから行政の調査が必須のものとなった。さらに、ニューメキシコ州とカリフォルニア州での州の健康局の市民調査では、それぞれニューメキシコ州2.5%、カリフォルニア州6%の市民が、過去にMCSの診断を受けていた。なお、この疾患とは別に16%の米国市民が日常の化学物質に異常な反応を示していると報告している。
1998年に出版されたRosenstock及びCullenによると化学物質過敏症の定義は、次の通りである。
    
1) 本症は、後天的であり、通常は少量長期か、大量化学物質摂取後(サリン事件等)に多い。
2) 症状は多臓器性であり、自律神経症状・精神・神経症状を有する。
3) 自己に有害であるという物質に再接触すると、発症する傾向がある。
4) 症状は一つ(悪臭に耐えられない、眼がちかちかする)からやがて拡大し過敏を示す化学物質の数も増大する傾向がある。
5) 反応は、通常安全とされる量(No Adversive Effct Level:NAEL)の1/100位までであることが多い。
6) 神経系、感覚器系、呼吸器系に症状が出やすい。
7) 本症以外他に病気を有することは極めて少なく発病以前は全く健康であった人が罹患しやすい
8) 女性に多く特に30〜40歳代に多いとされる。




3.病因論について

 この症例はアレルギー反応から進行することが報告されている。米国のMeggs(1996.2000)によるとノースカロライナ1027人の調査では、アレルギー(眼、鼻、咽喉・喉頭、呼吸器など)を有する患者は35.0%であった。そのうち、毎日発症する率は、9%/日、30%/週、61%/月の割合となっている。1991年になされた日本人の45000人の同様調査では、過去にアレルギーと診断された人が34.9%であるとしているが、その値とよく似ている。Meggsは、化学物質過敏症(Muliple Chemical Sensitivity:MCS)は13.9%、アレルギーとMCSを両方持つものは、16.9%であるとしている。以上から、先進国では、人口の約1割前後にこのような疾患があると考えられる。また本症にかかりやすい人の遺伝子分析もスウェーデンで行われている。生体は神経を切るような、脱神経支配や神経の遺伝物資、例えばアセチルコリン(Ach)等の物質を考えてみる。その物質の神経末端からの遊離を抑制する、その物質つまりアゴニストの濃度減少が起こると次に与えられたアゴニスト(Ach)に対する反応が著しく亢進する。
 これを「過敏症」と呼んでいる。そこで神経を切るような作用のある、A:比較的大量の化学的物質に暴露された後、B:身体に影響が顕在化しない低濃度の化学物質に生体が繰り返し長期に暴露される。つまり、極微量でも毎日一定の量が長年にわたって身体に侵入しつづけると、人体は自律神経失調症やアレルギー症状にきわめて類似した身体の反応を示す。
 Overstreetらが本症の動物モデルの研究Acetylchlin‐esterase、 Paraoxonaseの面から追求し、有機リンを中心に研究を行っている。例えば、ある種の有機リン殺虫剤の解毒酵素を持たない動物をつくり、これを利用して微量の有機リン殺虫剤による行動の異常、動脈硬化の進行が年齢を越えて加速されるなどの研究がNature(1998)に掲載されている。我々はすでに1996年、日本眼科学会雑誌に重症の動脈硬化をきたし、失明、死亡し有機リン中毒と認定された患者の報告を行っている。





4.診断基準

本症の診断基準は、1997年厚生省長期慢性疾患総合研究事業アレルギー研究班により、化学物質過敏症の診断基準が宮本・石川らによりつくられ、厚生省疾病対策課から、保健所、一部の医師会その他に配布された。しかしまだ一般医師には十分な情報がなされていないのが現状である。1997〜1998年に行われた厚生省科学研究班の結果では懸念される化学物質のうち、ホルムアルデヒド、パラジクロロベンゼン、トルエン、スチレン、防蟻剤、難燃剤、可塑剤などによる中毒症例を提示し、主に、神経毒性、アレルギーの発現などにつき考察を加え、多領域専門家による報告書を作成した。その内容を簡単に記すと、

症例1 基本的にホルムアルデヒド値がすべて80ppbを越え慢性中毒と考えられる症例であり、重症の皮膚炎、精神症状、頭痛、吐き気が強く家族3人が新築の家に引越して共倒れになった家庭である。
症例2 防蟻剤クロルピリホスによる有機リン殺虫剤による慢性中毒でニコチン、ムスカリン様中毒症状が強く赤血球コリンエステラーゼ値が低下した症例で、防蟻剤の気中測定もさなれ、その原因が明らかになったので、スコポラミン作用のある臭化プリフィニウム(パドリン)投与にて症状が消失した一家である。
症例3 ベンゼン、キシレンなどの芳香族化合物(VOC)による中毒が考えられ、神経症状と血液所見に異常を認めた例である。
症例4 新築マンションで発症した重症で主にホルムアルデヒドの中毒、シロアリ駆除剤で複合中毒が疑われた例である。
症例5 種々なる芳香族化合物の検出、特にトルエンの高濃度検出があり、さらにピリダフェンチオン(防蟻剤)検出もなされ、これらの微量中毒が関係した症例である。
症例6 防蟻剤クロルデンを中心とする古い症例で、有機塩素殺虫剤は極めて残効性の高い物質による中毒と考えられ、未だに体内から排出されないために、不定愁訴を出している症例である。
症例7 ごみの中間処理施設との関係も推定される難しい症例で、本人の希望でダラス臨床環境医学センターを受診し、詳しい血液検査、体内反応検査、免疫学的検査などが行われMCSの診断が米国で行われた症例である。





5.症状のまとめ

 化学物質過敏症は、中枢神経系または自律神経系を中心とした症状が基本である。ホルムアルデヒドの場合は、粘膜刺激症状が基本で、結膜、鼻粘膜、喉、気管支などに症状を出すが、慢性微量中毒では精神神経症状がかなり著明になる。例えば、攻撃的、粘着的、懐疑的な行為・行動などが起こりやすくなる。トルエンの場合は、シンナー遊びで知られるように、大脳皮質の興奮状態による症状や、小脳失調なども出現する。進行すると、大脳、小脳症状、視神経障害、網膜障害、前庭症状などをきたすが、トルエンは眼の調節機能、眼球運動系にも影響を与える。有機リンは、中枢及び眼を含む末梢のニューロパチーをきたす。特に、網膜、視神経などの感覚器の障害が著明である。最近、防蟻剤である有機リン剤クロルピリホスメチルが低いレベルで子供の染色体に異常を作ることが明らかになった。このことは、周知のごとく、米国政府で追試され完全に証明されている。米国では、眼毒性があるかないかが有機リン殺虫剤の許可の決め手になっている。
にもかかわらず、日本では未だにそれを無視しようとする農薬行政とメーカーの動きがある。深刻な患者の苦痛を是非知るべきである。




6.化学物質過敏症の治療

  今までの疾患概念からすれば治療手順は、1:原因物質からの隔離、クリーンルームを使用する(マスキング除去)、2:身体状況の改善のため転地療法も良い。3:体内からの有毒物質の排出。例えば有機リン殺虫剤の中毒が疑わしい場合には、第一にはアトロピンを用いる。その他の中毒の場合は、それぞれの物質薬理作業を研究し、解毒剤投与をおこなう。フリーラジカルの清掃者としてビタミンA、C、B6、E、Co−enzymeQ10など、さらにZn、Mg、Seなども必要時投与する。
長期にわたる原因物質への暴露で蓄積効果や症状が重篤のため早急に改善が必要な場合はその化学物質に適した解毒剤や代射促進剤の投与を行う。4:難治の症例や治癒後、社会復帰させるときを含めた中和療法をおこなう。1998年5月から北里大学医学部相模原キャンパス内に実験用クリーンルームが完成しさらに、1999年5月より、白金北里研究所内附属病院内に日本で初めての患者診断用クリーンルームが開設され、MCSに対して診断活動が行われている。




7.本症に対する提言

1) 微量化学物質の慢性中毒診断のための医師、パラメデイカル教育、カウンセラー養成。
2) 保健所、地方公的機関と病院とが連携し患者の化学物質の測定、診療に強力する。
3) 本症発生と関係の深いホルムアルデヒド、トルエン、防蟻剤、例えばクロルピリフォスメチル、毒性の強い揮発性芳香族化合物VOCキシレン等のガイドライン値の作成及び測定法の確立。
4) 血液、尿、毛髪など体液成分における化学物質の簡易なそして廉価な測定法の確立
5) 汚染地域での一般住民を用いた行動学の分析
6) 報道機関、一般市民に対する正しいPR
7) 化学会社に対する臨床側からの化学物質過敏症に対する正しい情報の伝達を要する。




8.おわりに

 住まいの環境汚染を理解するために、最近話題のシックハウス症候群、化学物質過敏症症候群(MCS)に関して総説的に解説した。本症は微量環境化学物質の慢性接触により生じた生体の自律神経、中枢神経、免疫系、内分泌系を中心とする過敏反応による複雑な症候群である。現在、特に患者が多いのは新築または改築により生じた症例が中心をなしている。現代人は、過去50年前にはなかったような合成化学物質の蓄積がすでに高く、生体解毒システムが動員され使われているので、本来ならば反応しないような低い値での反応が身体に起きてしまう可能性が強い。今後も我々も真摯な立場で本疾患に対処する必要がある。




参考文献

タイトル 著者 出版
化学物質過敏症ここまできた診断、治療・予防法  石川哲、 
 宮田幹夫 
 かもがわ出版、 
 1999.11.15 
ここまできた環境破壊「家が人間を病気にする」  石川哲編、 
 奈須紀幸監修 
 1−48PP、 
 ポプラ社、 
 2000年 
化学物質過敏症  柳沢幸雄、 
 石川哲、 
 宮田幹夫 
 文春新書230、 
 2002.2.20 


 
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