私は以前に「Face in Conservation」という本を日本で出版するために翻訳した。この本は世界の主要な宗教家達が集り、編集した本だ。WWFとイギリスのフィリップ殿下が中心となり、世界の動物保護活動に取り組み、その一環でチラシなどを作って民衆に環境保護を呼びかけてきたが、効果が少なかった。そこで、民衆に一番影響力があるのは宗教家ではないかと考え、世界銀行の協力を得て、世界各国の主要な宗教の指導者を集め、大会を行った。これがこの本の出版の発端である。それから、何回か集いを重ね、各宗教で勉強会を行った。各宗教には宗派があり、各派によって、言葉、考え方、概念、解釈が異なるが、各宗教で、環境についてどのように説いているかを議論した。
この背景に、1967年に、歴史家のリン・ホワイトが、「今日の生態学的危機の歴史的源泉」という論文で環境問題とキリスト教の関係について述べ、当時物議を醸した歴史がある。リン・ホワイトの考えでは、西洋の宗教、特にキリスト教、ユダヤ教においては、自然と人間を区別している。自然は神が人間のために創り、与えたものだとしている。だから、人間は傲慢にも自然をどう使ってもいいと考えるようになったということである。一方で、古代宗教では人間と自然は一体、仲間だと考えている。インドではネズミが、日本ではキツネが神様だとしており、同じ動物に対し、他国とは違う感覚を持っている。このように各宗教で様々な価値観の違いがあるので、各宗教家達が集り、宗教と自然・環境について議論するようになった。その成果で私が特に感激したのは、それまでキリスト教では「人間は神の似姿として創られ、あらゆるものを人間のために与えた」という考えに替わって、「人間は神の創った美しいもの=自然のガーディアン(管理人)という任務を与えた。よって、人間はもっと環境に対し、慎重に接しなくてはならない」という新しい考えが生まれたことだ。先のローマ法王、コンスタンティノーブルの大司教、そして大会の中心となったカンタベリー大司教が呼びかけ、話し合ったところ、各宗教の古い経典の中に、いかに環境を大事にするべきかということがたくさん書かれているかが判明した。
また、この本の中にはイスラム教だけでなく、各宗教の聖なる言葉を収録している。同じ宗教の複数の宗派が一緒になって、言葉を定義し、確認した画期的な思想を載せている。
日本のメディアでは、宗教間の戦争やイスラム原理主義の過激なテロなどが報道され、宗教に対し破壊的、否定的印象が持たれているが、世界においては、宗教は大きな力を持っている。軍事力に頼り、信仰を軽視していたロシアのスターリンも、結果的にポーランド出身のローマ法王により、信仰の力で東ヨーロッパにつくり上げた帝国を破壊された。これを見ても、まだまだ宗教は日本で考える以上の力を持っている。
モーゼの十戒や仏教の五戒に比べて膨大な数の六法全書に記される法律で人々を規制しても、それだけ世の中がよくなるという訳ではないことが、現代の日本の社会問題を見てもわかる。人間の根本的なことを改めて考えれば、私たちの生活を最も左右する大きな力を持っているのは宗教だとわかる。日本では様々な講演、出版において、一般的に宗教と政治だけはタブーだとされている。現在の国際社会へ一歩踏み出せば、世界はまだ宗教が大きな影響力を持っているが、それに対する免疫も日本人は持っていない。
日本人はリンカーンの「人民の人民による人民のための政治」という言葉を好んで多用しているが、本来はこの言葉の前に「Under God(神のご加護の下で)」という言葉が入っているのを、都合よく省いている。また、アメリカ合衆国の紙幣にはどれにも「IN
GOD WE TRUST」と書かれている。そして、歴代の大統領で、就任演説の際に神について触れていない者はいない。アメリカだけではなく、世界でほとんどの人達が自分自身の命を左右するような時の価値基準、拠り所とするのは宗教だ。その宗教に私達の地球をもっと大切にするための役割を果たしてもらうことは必然的なことではないだろうか。
6.精神世界の環境問題
環境問題へ対処するために、私達全員が南極や南太平洋へ出向いて活動する必要はない。今私達がいる場所そのものが地球だ。京都議定書に書かれていることだけが「環境」ではない。自然環境だけでなく、私達の生活圏の全てを環境だと考えれば、我々の関わり、言葉による環境破壊もたくさんおこっている。
毎日のように、テレビやラジオで極端で過激な表現のキャッチコピーや発言が氾濫している。それらの言葉は毒ガスのように有害にもなりうる。日本人の多くは信仰を持たないが、他人に迷惑をかけず、常識を守ることを美徳としている。しかし最近は常識をやぶることを助勢するコマーシャルが流れている。ライブドアの堀江元社長や小泉首相などに象徴されるように、とにかく常識を破ることに勇気を感じ、英雄だと持ち上げる傾向にある。このような社会は精神汚染につながり、ひとつの環境破壊と言えるのではないか。
また、日本は単一民族国家に近い状態で来たため、他民族への意識が薄い。しかし、近年では街中で頻繁に外国人を見かけるようになった。過去の政策により、留学生を10万人日本に誘致し、人数だけはあらゆる手立てを使って来させることができたが、その人達が日本で充実して勉強し、それを自国に持ち帰ることができるような環境をつくっているとは言えない。これも一つの環境問題ではないか。
マハトマ・ガンディの言葉で、「God has given enough to meet all the needs but all the greed(神様は人の必要に答えられるよう十分に与えているが、全ての欲を満たすのには十分与えていない)」というものがある。最近この言葉を実感する事例が多くある。ライブドアの堀江元社長が巨額の財を持っていたから幸せだったとは限らない。多忙で、自分自身の行いの結果がどうなるか考える暇もなかったのではないだろうか。同様に、環境破壊の最大の犯人は私たち一人一人の心である。心の中に節度を持つことが大切で、意識の働きかけがないままにしていると、おそらく石油以外の資源も不足することになるだろう。この地球は有限である。その資源をどこまで長く使うことができるかは私たちの心がけ次第だ。私が日本のレストランでご飯が食べきれないので少なくして欲しいとお願いすると、大抵は「いいですよ、残してください」という答えが返ってくる。これが親切なのか無知なのか面倒なのかはわからない。しかし、この事が象徴するように、地球のバランスは崩れており、ある場所には過多であり、また別の場所では不足している状態である。このバランスを今後どのように調整していくかが重要だ。
私が日本に来て驚いたのは、他国の様にタクシーの運転手同士がけんかをしていないことだった。また、田舎では留守宅に訪問しても玄関が開いていることすらあった。これらのことから、日本人は高度な倫理を持つすばらしい国なのだと感じた。しかし、最近思い直したのは、日本人だけが特別なのではないということだ。当時、日本では他国のようにタクシー運転手がけんかし、騙さなくても済む環境だったのだ。しかし、最近では事情も変わり、日本人も食べていくため、またそれぞれの事情のために、環境次第で他国の人々と同じようにしなくてはならなくなるだろう。日本国憲法では、すべての国民に最低限度の文化的生活を保障しているが、一方で、ガス、水道、電気も全てお金が払えなければ止められてしまう。それらがなければどうやって文化的な生活ができるだろう。文化的生活をする環境を、国が保証するはずなのに、実際は十分に行われていない。これも環境破壊に通じるかもしれない。
多くの日本人が私の故郷を始め、海外で植林活動をしてくれることを、心から感謝している。しかし、同時に自国の中で最低限度の生活が脅かされていることに対し、誰も反対意見を出さず、黙認しているのに矛盾を感じる。ガンディは、悪いことをしなくても、悪いことを黙認すればそれは共犯だと言っている。今我々の地球環境が悪くなっているとすれば、それを放置してきた我々一人一人も共犯者としての責任と罪がある。私は日本で水を大量に流しながら洗車している家をよく見かける。一方ネパールでは今まではヒマラヤの麓でおいしい水が飲めたが、今では外国に売ると付加価値がついて高く売れることがわかり、外国に売ってしまうため、地元の人が飲み水にすら窮している。1日に2回だけ、決まった時間に共同の水道を使うために並び、水を持って帰らなければならない。そのために争い、人間関係が壊れることもある。これはけんかしている人達が悪いのか、けんかをする環境や原因をつくっている人達が悪いのか。私は後者だと考える。同様のことが現在世界中でおきている。我々は環境問題を切り離した問題と考えてはいけない。直接手を加えていないと思っている人達も、それを黙認することによって同じように罪を犯しているのである。
人の価値観や心持によって、同じものが全く違って感じられる。キツネを神様とあがめる民族もいる。かわいい動物だと感じる人間もいる。また、農家や山野ではキツネが鶏を食べるなどの害のため、駆除する必要を感じている。これらの問題においても、やはりバランスが大切である。何を基準に考えるかという違いがあるだけで、一つの考え方が絶対だということはない。本日の私の主張も、地球上に住む60億人の中の一人が地球保全のためにおこした訴えのひとつとして考えていただきたい。