2006年度 市民のための環境公開講座
   
パート4:
環境問題の根源を学ぶ
第2回:
環境保全における宗教の役割
講師:
ペマ・ギャルポ氏
   
講師紹介
ペマ・ギャルポ氏
1953年チベットのカム地方生まれ。1965年に来日し、1973年チベット文化研究会設立、事務局長就任。1976年、亜細亜大学法学部卒業、同年上智大学国際学部大学院入学。77年チベット文化研究所所長就任。80年から90年までダライ・ラマ法王アジア・太平洋地区担当初代代表。1996年、岐阜女子大学教授、2004年、岐阜女子大の名誉教授。現在、チベット文化研究会名誉所長、桐蔭横浜大学・大学院教授。主な著書は、「ダライ・ラマ法王の実践幸福論」(原案/ダライ・ラマ14世、訳/ペマ・ギャルポ)、「新国際政治学講座 お蔭様イズムの世界」、「世界同時大恐慌」(著/ラビ・バトラ、監訳/ペマ・ギャルポ・藤原直哉)など。
 
 
1.はじめに
 

 私は客観より主観を重視している。印刷物も放送番組も客観的なものだと考えられがちだが、15秒のテレビコマーシャルをどのように構成するか、新聞記事にどういう見出しをつけるかは、編集者の主観によるもので、それによって受けとる側の印象も変わる。環境問題というテーマは私の専門外だが、私個人の主観を、私の責任において主張する。

 
 
2.チベット人の環境観
 
 私達チベット人は、外の宇宙の他に、自分自身の体内にも宇宙があると考えている。体の中にもたくさんの生き物が生きている。体そのものが、地、水、火、風、空の融合体であり、消耗すれば老い、衝突すれば壊れる。外の宇宙も人間の内なる宇宙も、バランスが崩れれば、存在維持するための調和がとれなくなり、環境が破壊される。これは賛否があるだろうが、私達にとっては、臨終の枕元に、水を差し上げる息子がいるかどうかが、その人がどう生きてきたかの指標になる。臨終に水ももらえない生き方をしたというのは、他人に対して良いことをしてこなかったということだと判断される。また、自分自身の体という宇宙が分離し、消える時、自分自身がその死の訪れを認知するための修行を重んじている。チベットの死者の書には、自分自身が死んでいく時に、体にどのような現象がおきるかが具体的に書かれている。例えば、熱が上がり、水は落ちる。いくら枕を高くしても、自分自身が落ち込んでいくような感じがする。目が霞み、雑音が聞こえ、五感が弱ってくる。このような現象がおき始めたら、命数を読み、労るようにする。
 このことは地球環境にも言える。環境問題もバランスの問題だ。バランスがとれているかどうかが環境に影響し、崩れれば問題が生じる。自然淘汰による資源や生物の増減とは別に、今日の環境問題は人間が手を加え過ぎたことが原因だ。
 人間の幸せとは何かという問いに、日本人は大抵人それぞれだと回答する。私もそれに納得しない訳ではないが、自分自身が子どもの時に命からがら亡命し、難民キャンプで栄養失調になり、友達が餓死するのを見てきた経験があるため、やはり幸せの条件は、人間が生きていくために食べる、寝る、恐怖のない場所で過ごすことなどが必須だと考える。人間は、血、骨、肉という物質的な要素から構成され、心臓が動いて全身に血を送って生きている。それを機能させるために、食べる、寝る、空気を吸うことが必要だ。しかし、それが整ったら全ての人が同様に幸せになれる訳ではない。幸せの感じ方は人によって異なり、時や場所によっても違う。例えば、空腹の時には食べることが幸せだが、満腹時には苦しみに変わる。つまり、幸福には物質的なことだけでなく精神的要素も重要である。
 私は7歳の子どもの時にヒマラヤを越えてインドへ亡命したが、5歳くらいまでは豊かで不自由のない生活をしていた。しかし、家の近所に果物の実があったのだが、親から、「実を採る時に木を揺すって落ちてきたものを食べなさい。もともと落ちているものは神様から畜生に与えられたものなので、人間が勝手に採ってはならない。また、木に生っているものを無理やり採ってもいけない、それは神様のものなので、罰が当たる」と教えられてきた。人間が採り過ぎてしまえば、自然が再生できなくなってしまう原理を知っていたのだ。現在の日本では、いつでも世界中の果物を食べることが出来る。しかし、日本に輸入される果物は、日本の消費者が食べる頃に熟するようにするため、まだ神様のものである木に生っているうちに収穫されている。この現象と同様のことが、今日の環境問題についても言えるのではないか。本来私たちは神のものとして尊ばなくてはならないものを、自分達の利益のために無理やり収奪し、手を加えている。
 中国の四川省に新龍県からチベットの私の村まで流れる川があり、そこでは砂金が採れた。チベット人は砂金を採らなかったが、中国人が砂金を採りに来た。当時私の父は許可する立場だったため、魚の貢物の見返りとして、自分の所有物と考えていた砂金を採る権利を中国人に与えた。しかし、村の僧侶達は反対していた。彼らは、地球も我々人間の体と同様で、脂肪や血や水が必要であり、それを無理やり採ってしまえば、バランスがとれずに地球が壊れてしまうと主張した。そこにはチベット人の知恵があった。しかし、当時私たちの国を解放した側からすれば、そのような思想を持つチベット人は野蛮で無知だと考えられた。だから、その人達を科学的社会主義によって解放するのだと説明された。しかし、チベットでは教科書を使わなくても、物語を子ども達に話し、大切なことを教えていた。それらの物語には環境や自然の深い知恵が盛り込まれている。チベットの教育は、少なくとも環境問題においては、チベット人を野蛮人と軽蔑していた人達よりも、知恵を持っていたのではないだろうか。
 
 
3.「地球環境を救う聖なる言葉(Face in Conservation)」
 
 私は以前に「Face in Conservation」という本を日本で出版するために翻訳した。この本は世界の主要な宗教家達が集り、編集した本だ。WWFとイギリスのフィリップ殿下が中心となり、世界の動物保護活動に取り組み、その一環でチラシなどを作って民衆に環境保護を呼びかけてきたが、効果が少なかった。そこで、民衆に一番影響力があるのは宗教家ではないかと考え、世界銀行の協力を得て、世界各国の主要な宗教の指導者を集め、大会を行った。これがこの本の出版の発端である。それから、何回か集いを重ね、各宗教で勉強会を行った。各宗教には宗派があり、各派によって、言葉、考え方、概念、解釈が異なるが、各宗教で、環境についてどのように説いているかを議論した。
 この背景に、1967年に、歴史家のリン・ホワイトが、「今日の生態学的危機の歴史的源泉」という論文で環境問題とキリスト教の関係について述べ、当時物議を醸した歴史がある。リン・ホワイトの考えでは、西洋の宗教、特にキリスト教、ユダヤ教においては、自然と人間を区別している。自然は神が人間のために創り、与えたものだとしている。だから、人間は傲慢にも自然をどう使ってもいいと考えるようになったということである。一方で、古代宗教では人間と自然は一体、仲間だと考えている。インドではネズミが、日本ではキツネが神様だとしており、同じ動物に対し、他国とは違う感覚を持っている。このように各宗教で様々な価値観の違いがあるので、各宗教家達が集り、宗教と自然・環境について議論するようになった。その成果で私が特に感激したのは、それまでキリスト教では「人間は神の似姿として創られ、あらゆるものを人間のために与えた」という考えに替わって、「人間は神の創った美しいもの=自然のガーディアン(管理人)という任務を与えた。よって、人間はもっと環境に対し、慎重に接しなくてはならない」という新しい考えが生まれたことだ。先のローマ法王、コンスタンティノーブルの大司教、そして大会の中心となったカンタベリー大司教が呼びかけ、話し合ったところ、各宗教の古い経典の中に、いかに環境を大事にするべきかということがたくさん書かれているかが判明した。
 また、この本の中にはイスラム教だけでなく、各宗教の聖なる言葉を収録している。同じ宗教の複数の宗派が一緒になって、言葉を定義し、確認した画期的な思想を載せている。
 
 
4.宗教が果たす役割
 
 タンザニアでは長い間、網を使い、自然とのバランスを守りながら伝統的な漁業を行っていた。そこへダイナマイト漁の手法が持ち込まれ、サンゴ礁など海の生態系は打撃を受け、過剰な乱獲により漁獲量は年々減っていく事態が起きていた。しかし、そのことを漁民に理解してもらい、ダイナマイト漁をやめてもらうことは、政府が警告し、法律で禁じても、警察が取り締まっても効果はなかった。彼らには、環境を守ろうという気持ちはあっても、島に暮らす漁民も環境の一部だという考えがなかった。そこで、ARCなどのNGOが、その村の長老達に集ってもらい、イスラム教の視点から、ダイナマイト漁について検討してもらうよう働きかけた。「浪費に神の愛はありません。ああ、アダムの子ども達よ!食べ、そして飲みなさい。しかし度を越してはなりません。浪費の愛はないのです」(コーラン、スーラ7.31)というコーランの言葉が、ダイナマイト漁を行う漁民達の心を動かした。この成果は、宗教が権威を振り回したからではなく、住民の文化と世界観から見て、長老達の指導が道理に適い、人間性への深い理解に満ちていたからである。
 また、カンボジア、ベトナム、ラオスにおける内戦で、環境が破壊された状況を見て、僧侶達が中心となり、募金を集めて活動している。昨年夏には、モンゴルで、アジアの仏教者達の環境活動についてのワークショップが行われ、各地で実際に活動している僧侶達から報告がされた。また、中国でも今夏、アジアの宗教者と環境活動家が一緒になって更に大きな会議を開こうという動きがある。その一連で、私の生まれた村でも僧侶が中心となり、環境開発促進NGOを立ち上げ、中国政府も認定・許可した。
 また、近年は気軽に海外へ短時間で行けるようになったが、同時にエイズやSARSを始めとした伝染病の問題に直面している。その対策にも、宗教家達は一生懸命議論し、取り組んでいる。その他にも、以前日本人がペルーでゲリラに捕まった時に、宗教家が仲介に立ち、無事に解放することができた。このように、宗教が環境問題や社会問題、平和維持のために大きな役割を果たす事例が世界中であり、宗教家は積極的にそれらの活動に従事している。
 日本を含め、世界の各宗教団体は資産を多く持ち、たくさんの学校、病院を経営し、中には株式に投資しているところもあり、大企業に負けない集金力を持っている。その資金を何に投資するかについて、昨年4月に行われたロンドンの会議で話し合われ、薬の開発、教育、環境保全など、建設的なことへの投資を奨励しようという結論に至った。さらに、武器の売買、その他環境に影響を及ぼすものへ協力など、破壊的なことへの投資をやめようという動きもある。
 我々は現在深刻な環境問題に直面しているが、この問題は突然現れたものではなく、私たちの行い一つ一つの結果として、住みにくい社会を徐々に自ら導いてきたのである。その問題に対する呼びかけをする役割を、宗教家達が担おうとしている。2000年に世界の精神指導者達が国連に集った。今まで彼らは世界人権宣言のように、権利を主張することに懸命だったが、今後はUniversal Responsibilityを持つべきだということを自覚し、世界倫理規定を作ろうと活動している。現在も各地で宗教が原因の戦争がおきているが、世界の宗教家達は、最も急務な環境保全に対し真剣に取り組んでいる。
 幸いにも、世界銀行、ユネスコ、ユニセフの指導者も、これらの宗教家の活動に対して理解を示している。宗教に対し、もう少し建設的な役割を期待することもできるし、同時に宗教家に対してアピールすることも大切だ。日本でも、神社仏閣が多くの自然を所有地に持っている。しかし、各宗教団体が所持している教会、幼稚園などの施設は近年の少子化の影響で駐車場などに変えるケースが多い。町の中の自然豊かなスペースを守ってもらえるよう、私たち主張することが必要だ。
 
 
5.日本と世界の宗教観
 
 日本のメディアでは、宗教間の戦争やイスラム原理主義の過激なテロなどが報道され、宗教に対し破壊的、否定的印象が持たれているが、世界においては、宗教は大きな力を持っている。軍事力に頼り、信仰を軽視していたロシアのスターリンも、結果的にポーランド出身のローマ法王により、信仰の力で東ヨーロッパにつくり上げた帝国を破壊された。これを見ても、まだまだ宗教は日本で考える以上の力を持っている。
 モーゼの十戒や仏教の五戒に比べて膨大な数の六法全書に記される法律で人々を規制しても、それだけ世の中がよくなるという訳ではないことが、現代の日本の社会問題を見てもわかる。人間の根本的なことを改めて考えれば、私たちの生活を最も左右する大きな力を持っているのは宗教だとわかる。日本では様々な講演、出版において、一般的に宗教と政治だけはタブーだとされている。現在の国際社会へ一歩踏み出せば、世界はまだ宗教が大きな影響力を持っているが、それに対する免疫も日本人は持っていない。
 日本人はリンカーンの「人民の人民による人民のための政治」という言葉を好んで多用しているが、本来はこの言葉の前に「Under God(神のご加護の下で)」という言葉が入っているのを、都合よく省いている。また、アメリカ合衆国の紙幣にはどれにも「IN GOD WE TRUST」と書かれている。そして、歴代の大統領で、就任演説の際に神について触れていない者はいない。アメリカだけではなく、世界でほとんどの人達が自分自身の命を左右するような時の価値基準、拠り所とするのは宗教だ。その宗教に私達の地球をもっと大切にするための役割を果たしてもらうことは必然的なことではないだろうか。
 
 
6.精神世界の環境問題
 
 環境問題へ対処するために、私達全員が南極や南太平洋へ出向いて活動する必要はない。今私達がいる場所そのものが地球だ。京都議定書に書かれていることだけが「環境」ではない。自然環境だけでなく、私達の生活圏の全てを環境だと考えれば、我々の関わり、言葉による環境破壊もたくさんおこっている。
 毎日のように、テレビやラジオで極端で過激な表現のキャッチコピーや発言が氾濫している。それらの言葉は毒ガスのように有害にもなりうる。日本人の多くは信仰を持たないが、他人に迷惑をかけず、常識を守ることを美徳としている。しかし最近は常識をやぶることを助勢するコマーシャルが流れている。ライブドアの堀江元社長や小泉首相などに象徴されるように、とにかく常識を破ることに勇気を感じ、英雄だと持ち上げる傾向にある。このような社会は精神汚染につながり、ひとつの環境破壊と言えるのではないか。
 また、日本は単一民族国家に近い状態で来たため、他民族への意識が薄い。しかし、近年では街中で頻繁に外国人を見かけるようになった。過去の政策により、留学生を10万人日本に誘致し、人数だけはあらゆる手立てを使って来させることができたが、その人達が日本で充実して勉強し、それを自国に持ち帰ることができるような環境をつくっているとは言えない。これも一つの環境問題ではないか。
 マハトマ・ガンディの言葉で、「God has given enough to meet all the needs but all the greed(神様は人の必要に答えられるよう十分に与えているが、全ての欲を満たすのには十分与えていない)」というものがある。最近この言葉を実感する事例が多くある。ライブドアの堀江元社長が巨額の財を持っていたから幸せだったとは限らない。多忙で、自分自身の行いの結果がどうなるか考える暇もなかったのではないだろうか。同様に、環境破壊の最大の犯人は私たち一人一人の心である。心の中に節度を持つことが大切で、意識の働きかけがないままにしていると、おそらく石油以外の資源も不足することになるだろう。この地球は有限である。その資源をどこまで長く使うことができるかは私たちの心がけ次第だ。私が日本のレストランでご飯が食べきれないので少なくして欲しいとお願いすると、大抵は「いいですよ、残してください」という答えが返ってくる。これが親切なのか無知なのか面倒なのかはわからない。しかし、この事が象徴するように、地球のバランスは崩れており、ある場所には過多であり、また別の場所では不足している状態である。このバランスを今後どのように調整していくかが重要だ。
 私が日本に来て驚いたのは、他国の様にタクシーの運転手同士がけんかをしていないことだった。また、田舎では留守宅に訪問しても玄関が開いていることすらあった。これらのことから、日本人は高度な倫理を持つすばらしい国なのだと感じた。しかし、最近思い直したのは、日本人だけが特別なのではないということだ。当時、日本では他国のようにタクシー運転手がけんかし、騙さなくても済む環境だったのだ。しかし、最近では事情も変わり、日本人も食べていくため、またそれぞれの事情のために、環境次第で他国の人々と同じようにしなくてはならなくなるだろう。日本国憲法では、すべての国民に最低限度の文化的生活を保障しているが、一方で、ガス、水道、電気も全てお金が払えなければ止められてしまう。それらがなければどうやって文化的な生活ができるだろう。文化的生活をする環境を、国が保証するはずなのに、実際は十分に行われていない。これも環境破壊に通じるかもしれない。
 多くの日本人が私の故郷を始め、海外で植林活動をしてくれることを、心から感謝している。しかし、同時に自国の中で最低限度の生活が脅かされていることに対し、誰も反対意見を出さず、黙認しているのに矛盾を感じる。ガンディは、悪いことをしなくても、悪いことを黙認すればそれは共犯だと言っている。今我々の地球環境が悪くなっているとすれば、それを放置してきた我々一人一人も共犯者としての責任と罪がある。私は日本で水を大量に流しながら洗車している家をよく見かける。一方ネパールでは今まではヒマラヤの麓でおいしい水が飲めたが、今では外国に売ると付加価値がついて高く売れることがわかり、外国に売ってしまうため、地元の人が飲み水にすら窮している。1日に2回だけ、決まった時間に共同の水道を使うために並び、水を持って帰らなければならない。そのために争い、人間関係が壊れることもある。これはけんかしている人達が悪いのか、けんかをする環境や原因をつくっている人達が悪いのか。私は後者だと考える。同様のことが現在世界中でおきている。我々は環境問題を切り離した問題と考えてはいけない。直接手を加えていないと思っている人達も、それを黙認することによって同じように罪を犯しているのである。
 人の価値観や心持によって、同じものが全く違って感じられる。キツネを神様とあがめる民族もいる。かわいい動物だと感じる人間もいる。また、農家や山野ではキツネが鶏を食べるなどの害のため、駆除する必要を感じている。これらの問題においても、やはりバランスが大切である。何を基準に考えるかという違いがあるだけで、一つの考え方が絶対だということはない。本日の私の主張も、地球上に住む60億人の中の一人が地球保全のためにおこした訴えのひとつとして考えていただきたい。