2004年度 市民のための環境公開講座
   
パート2:
自然に親しむ  
第1回:
里地里山の復権
講師:
竹田 純一氏
   
講師紹介
竹田 純一氏
里地ネットワーク 事務局長
1960年、東京生まれ。英国シンクタンク、日本リサイクル運動市民の会などを経て、里地ネットワークの設立に参加、現在事務局長。「地元学」を活用し、愛知県美浜町、新潟県佐渡島などの地域づくりに寄与してきた。里地共生事業を、気候、風土、地域、地形と地場産業の育成というコンセプトで実践している。 里地里山保全方策の検討とモデル地域づくり(環境省)、トキの野生復帰プロジェクト(新潟県佐渡島)、アベサンショウウオの保全と地域社会づくり(福井県武生市西部地域)里山づくり(神奈川県)、日本の里地里山30保全活用コンテスト(読売新聞、環境省・事務局)、田園自然再生活動コンクール(農水省・運営委員)、こどもホタレンジャー(環境省・審査委員)等を進めている。
 
 
1.里地里山の定義
 
 里地里山とは、雑木林、田んぼ、小川といった身近な自然に恵まれ、長い歴史の中で、自然と共生した暮らしが伝えられてきたところである。小川のほとりに集落があり、集落のとがったところには神社が、奥まったところにはお寺がある。小高い丘陵のような山の奥のほうから湧き出た湧水を活かして田んぼや畑をおこなう。家の母屋には囲炉裏の煙出しがあり、敷地には土蔵や納屋がある。庭では子どもたちが遊び、裏庭では家畜を飼っている。四季の変化に合わせた農作業、人の暮らしに合わせて生きてきた生き物たち、自然の力を利用した生活、その中で自然と触れあいながら遊ぶ子どもたち。このような里地里山のもともとの暮らしというのは昭和30年ぐらいまで、地域によっては50年代ぐらいまで残っていたところもあった。しかし、今の暮らしの中に、そして我々の心の中に残っているだろうか。
 
 里地里山は、国家戦略の中では生物多様性条約にもとづく戦略の中で位置づけられている。日本の生きもののおよそ半分の種は、里地里山の生きものである。
 里地という言葉は、実は新しい。人の営みと関わりがない自然がある奥山と、人と関わりのある自然がない都市の間を指すものとして、里地自然地域という概念ができた。1994年〜96年に、国の長期ビジョンの中で循環型社会や持続型社会といった観念が出てくると、里地自然地域という概念が薄れた。しかし、同時期に生物多様性条約という、国際社会の中で生物の多様性を重視しようという条約ができ、それに基づいて日本も生物多様性国家戦略をたてた。環境省では、生物多様性の観点から新たに「里地里山」という概念を設け、どのように保全していくか、環境省以外に農水省、林野庁、国土交通省、自治体、さらには住民、NPOができることが何かを考え、対策を検討している。里地ネットワークでは、人が持続的に暮らしていけるような循環型社会づくりというスタンスで保全活動から政策づくりなどの取り組みをおこなっている。
 
 
2.自然と共に暮らす里地里山
 
 里地里山の原風景は、恐らくおじいちゃん、おばあちゃん達の暮らし方そのままである。それはその代の人たちが新しくつくったものではなく、その土地が拓かれてから、代々引き継いできた知恵、自然への働きかけの結集なのだと思う。里地里山が懐かしく感じるのは、その土地のなかで自然の摂理や地形を利用してつくってきた、人と自然の一体感のある風景だからではないかと思う。
 
 里地里山は一年を通じてさまざまな変化がある。
 アメリカから日本に来たケビン・ショートさんによると、里地里山では、それぞれの生きものの暮らしはまるでジグソーパズルのようだという。里山にいる生き物が冬にどこで暮らしているのか、どこから出てくるのか、また、いる時もあればいない時もある。里地里山のメカニズムというものが解明できないからだ。
 この里地里山の生態系の複雑さは、田んぼをつくり、水を引き、燃料を調達し、生きものを採取するといった人間の営みによるものである。
 農家の庭先にはたくさんの食用、薬用など役に立つ植物が植えられている。それらは奥山で採取したものを身近な場所に集めてきたものだ。言い換えると、里山の中の生物多様性、特に人間にとって役に立つ生きものの多い場所は農家の庭先にある。
 農山村に住むおじいさん、おばあさんに、食べられる草花があるか聞いてみると、すごい数が出てくる。先日、神奈川県の城山町で現地調査をしたとき、自分の庭先に食べられるものや薬になるものをどのくらい植えているかお母さんたちにたずねたところ、82種類ぐらい作っているということが分かった。城山町は神奈川県で最初に県が里山づくりをやろうと決めた場所で、私はそこのアドバイザーとして参加していたのだが、こんなに身近に、昔からある里地里山の風景がそのまま残っている所があるのだと驚いた。
 
 1枚の田んぼの広さは、自分が関わりを持てるぐらいがいい。小さな田んぼだと草取りなどの作業ができるが、最近の一町歩田んぼと言われるような1枚=1haの田んぼでは、作業がなかなか終わらないので達成感がない。小さくて人間の手にかなうものというのはホッとするが、巨大なものというのは、ホッとするどころか自分との係わりが湧いてこない。この手の広い水田や畑は、大型機械がないと工作できない。
 里山は、人と自然が共生できる場だと思っている。自然、つまり、日本人にとって、もっとも身近な自然である里山、里海、里川の中で、暮らすことが、生きる力、共に生きる心を育むと私は考えている。そこから、地域独特の文化、自然に感謝する心、祭りや共同の「結(ゆい)」という作業など、いろいろ形を変えて里山文化が残され、私達自身のアイデンティティー(おさと)が形づくられているのだと思う。
 
 これらのことを全て含めた「村」の中には、ある家が他の家に関与するとか、実権をもっているといった、生まれながらに人と人との関係を位置づけるような封建的な仕組みもある。だが、今日では、そうした封建的な面は弱まってきている。このような封建的なしきたりを、新しい地域社会づくりの形に変えながら、もともとの里地里山の持つ魅力、文化、知恵、その地域の中で営々と積み重ねてきた自然への働きかける技術といったものを活かしていくことが必要だ。かつて先人たちは、土と石、樹木を活かして、水が出ている所から水を引き、水が抜けない棚田をつくり、水を次々にまわしていくといった知恵をもっていた。土を練ることで細かな粒子ができ、その粒子が沈み、時間がたつと粘土層になり水を止めることができる。また、いい堆肥の作り方や水の浄化方法には自然の腐敗物や家畜や野生生物の糞、カビといった、自然に浄化していく機能が活かされている。その他にも里山の中で、おじいちゃんやおばあちゃんたちがもっていた知恵は、数え切れないほどある。農業技術というのは実に奥が深い、こうしたことは、その地域の人たちによる維持管理が必要である。
 
 
3.里地里山での物質循環
 
 里山というのは、ただ懐かしいだけの場ではなく、循環型社会のキーワードになる物質循環の場でもある。里地里山は過去からずっと、その地域の中だけで循環し、地域の中だけで暮らしが成り立っていた。
 里山の中で回っていた循環をどこまで広げられるかということが、今課題になっている。現在の日本では、国内で消費される食料の半分以上、また、燃料はその殆どを国外からもってきて、それを国内で消費し排出しているという状況だ。食べ物の循環でいうと、例えば100トンを輸入したら、その分の排泄物(堆肥等)を海外に戻さないと物質循環にはならない。循環できない部分で、外国のどこかに迷惑をかけていることになる。
 
 
4.里地里山の生物多様性
 
 私は、懐かしさや、身近な生きものが大好きだという観点から生物多様性を見ている。しかしこの概念は、アメリカから提唱してきたものである。人間が新しいウィルスに感染した場合に、それを止める薬は生き物から得るしかない。これ以上生きものの種を減らしてしまうと人間を支えている生物多様性を失ってしまうことになる。
 里山は地形上の特徴として、水源との標高差が50m〜150mぐらいが生物多様性において理想だといわれている。水がゆっくり流れている所や止まっている所特有の止水生の生きものがたくさんいるからだ。標高差が500mもあると水の流れが急流となり、止水性の生きものは、流されてしまう。
 もともと森だったところを切り開いて畑をつくり、水が出たところを棚田にし、里山という環境を作ってきた。この先人たちの営みよって数千年にわたり植生遷移を止めてきた。この人による自然への継続的な働きかけは、桜の花が咲いてから1週間後に、といったような、自然が発するシグナルを見て行われている。人間が毎年繰り返し行ってきた作業によって生み出される環境も、実は、生きものにとっては自然環境となる。例えば、本来であれば急流の場所に田んぼが出現することによって緩やかな水の流れと泥の水路ができる。春になると田んぼに水が張られ、蛙が鳴きだし、すごい勢いで生きものたちが移動してきて生きものの天国になる。人間が自然への働きかけをやめると、ある生き物にとっては卵を産みに毎年きていた場所がなくなるという死活問題が起きる。つまり、人の働きかけがなくなると、里山に住む生き物にとって生存環境の急激な変化となる。
 
 
5.里地里山の危機
 
 里地里山にはさまざまな危機がある。
 第1の危機は、開発による危機。しかし、この開発にもさまざまな態様がある。
 一つ目は、里地里山をブルドーザーで切り開き、宅地や、テーマパーク、お墓、廃棄物処分場を作るなど、土地本来の利用と違った姿に改変する開発行為。
 二つ目は、水が湧き出ている所や溜池をコンクリートで固めたり、水が一気に流れるように水路にU字溝をつけたり、川を直角に切るといった、自然を人工的に改変する行為。
 三つ目は、工場生産的な農業スタイル。例えば、機械を導入するために排水を工夫して地盤がすぐ固くなるようにするなど、生産性を向上させる基盤を整える行為。この点に、生き物と人の共生の難しさが、あぶり出されている。(生産ゾーンと生物ゾーンの分離などの施策が求められている所以)
 
 第2の危機は、我々のライフスタイル、暮らし方、生産の仕方の変化にある。
 暮らしの変化によって燃料が石油やガスに代わり、薪がいらなくなる。化学肥料を使えば堆肥が必要なくなり、落ち葉も利用しなくなる。そうなると、山を管理しなくなる。管理されない状態が続くと人為が加わらずに植生遷移が進んでいく。これが大きな問題の一つである。
 また、簡易水道や上下水道が整備されて湧水や井戸、水辺の管理が必要でなくなると水系が変わってくる。外部から燃料や水を調達することで、その地域で暮らせる人の数も増え、農薬や化学肥料の使用によって、環境負荷の量が変わってくる。
 今の暮らしを考えてみると、燃料や食料など生活で必要な全てのものを外から買ってきている。若奥さんはスーパーで野菜を買ってくるから、おばあちゃん、おじいちゃんが作った大根を玄関に置いておいても腐らせてしまったりしている。食料を外部から調達するようになると、自給用に自分の畑で多くの種類を作らず出荷用の一つの作物になることによって里山の植生が単一化し、多様性が失われていく。
 このように里山管理の必要性、必然性がなくなってしまったため、農家に山を管理しろといっても、何のために管理するのかという答えが返ってくる。
 
 都会の人が1時間働いたら時給がでるが、里地里山の暮らしは、何故そうはいかない。環境をテーマに働く人のお給料が無いのは、未来世代と野生生物のために働いているからである。未来世代から今の世代にお給料は払えず、自然も生きものも物言わぬというところがある。それを誰かが代わって発言しないと、この国の未来と野生生物の未来が失われてしまう。
 
 里地里山の生物多様性から見た第三の危機は、移入種や化学物質である。
 ウシガエルは、戦後に日本人の食料にするためにアメリカから鎌倉に持ち込まれ、全国に広がった。ところが、戦後、生活が豊かになってくると、ウシガエルを食べなくなったためにウシガエルが生態系の頂点となった。ウシガエルは口に入るものなら他の蛙でも何でも食べてしまう。
 アメリカザリガニはウシガエルの餌として日本に入ってきた。アメリカザリガニより体の小さいニホンザリガニは生息地を追われ、北海道と秋田、青森ぐらいしか見られなくなってしまった。アメリカザリガニは、水草を食べ、稲を切ってしまうため、藻類と共生している生きものが住めなくなる。動きの遅い生きもの、例えばゲンゴロウやトンボ、水田水路の生き物の幼虫は全て食べられてしまう。水を抜いても土にもぐって生き残るため、水田はアメリカザリガニの王国になった。
 このように、移入種が入ってくると、放置された里地里山は移入種ばかりとなり、結果的に日本の里地里山の生物多様性は失われる。
 
 
6.里地里山の復権
 
 私が里地里山の問題に関わるようになったのは、子どものころ、このような里地里山でうんと遊んでいたからだ。この遊びを通じて、里山の暮らしに対しての憧れや魅力にとりつかれていた。里山には、まだまだいろいろな技術や知恵があるし、継承しなくてはいけないが分かっていない事柄が多い。
 以前は金融機関やイギリスのシンクタンクで仕事をしていたが、日本の自然とそのしくみが愛おしくなり帰ってきてしまった。自分にもできることが何かあるはずだと考え、この活動を始めた。活動のきっかけをつくってくれたのは、一番身近にいた妻だった。鎌倉にあった里山の中で子どもたちを育てる青空保育で子どもを育てたことがきっかけだった。
 子どもを見ていると、育つ過程が進むごとに、それまでの記憶を心の奥の方にしまい込んで、次のステップに進んでゆく、ということに気付いた。その中でも三歳までというのは命が微妙な時期で、その頃までに土や水の感覚をきちんとつけていないといけないと思った。また、7歳までは集落、地域社会という共同体のなかで育つことで、社会性をきっちりとおさえてゆくように思えた。
 高校になって地域社会の外に関心がいくようになる寸前の、たとえば中学三年生の頃に地域社会の中で地域との関わりを持たせることが重要だということも痛感した。鎌倉の公立の中学では、一日だけだが、高校に入る前に里山を保全するという活動を体験させている。それが、中学一年から継続してやれるといいと、鎌倉の古都保存会のメンバーが学校と交渉している。
 青年期や母親になるときは、その時の里山との関わり、生きるとか命とか社会性について見直したい。さらに、定年になって自由な時間を取り戻したときに狩猟採取や、ものづくりができるとすごく豊かな暮らしが送れると思う。そのようなことから、里地里山を復権することは人間性を復権すること、心の豊かさを復権することだと私は思っている。
 
 里地里山の復権についての二つ目は、持続可能な社会の模索にある。
 現在、地域内で薪を利用したり、安心、安全な食べ物をつくるための土づくりを行ったり、水源を守るような活動が、不思議かと思うが、政府の方針や労働組合の呼びかけで始まっている。
 また、在来作物の復元や、地域内の販売システムづくり、交換や直売など、お金によらない、例えばエコマネーなどの地域通貨などを利用するというのもある。これは、別の角度からみると、学校給食や飲食店や、駅弁などいろいろな方面にも広げることができる。
 
 一方で困ったと思うのは、人が里地里山の定義をしなかったがために、奥山が人間生活のすぐ近くにあることだ。きれいに管理された里山では500〜1000mほど見晴らしのきく広い空間があり、野生生物は臆病なのでいきなり畑にはこない。しかし、家のすぐ隣にヤブがあるとイノシシが家の庭に現れ、食べ残しや、収穫しない作物を食べに、イノシシやタヌキが下りてくる。これは、生ゴミや畑の農作物残さによる餌付である。鳥獣害とは、人間の暮らし方の問題でもある。
 
 三つ目は生物多様性の復権である。人工林や二次林、竹林を整備することによって、いろいろな生態系が復元していく。たくさんある耕作放置地の中には、人が手を入れればすぐにでもビオトープとなるようなところがたくさんあるので積極的に活用してゆきたい。
 例えば、修学旅行の体験の中でビオトープをつくるというエコツアーも今年の春から始めた。しかし、福祉の場合は直接の受益者がいるが、こうした活動は自然や未来世代に対する働きかけという側面なので、なかなか受益者が見えない。そのため、科学的な観点から解明して、その意義を広めていけるような取り組みも求められている。
 
 
7.里地里山の保全活動
 
 私は、佐渡では、トキの野生復帰のための地域社会づくりビジョンを担当している。平成12年から14年まで環境省のビジョンをまとめ、その後は、協議会の運営等を行っている。野生絶滅種のトキが数年後に野生復帰するまで、どのようなことを行う必要があるのか、さまざまな主体に働きかけたしくみづくりを行っているので、是非見ていていただきたい。
 かつてトキがいたさまざまな地域の人々と協働して、さまざまな活動をしている。
 佐渡でトキが野に放つためには、この30年間にやめてしまった棚田を、復元し、そこにたくさんのドジョウやサワガニなど、もともとそこにいた里地里山の生き物が戻ってくるような地域づくりをしなければならない。それは、トキのためだけというより、トキや子どもたち、かつての自然との関わりのある暮らし方事態を復活させるためにやっているというのが本当のところかもしれない。
 
 また、20〜40世帯前後の集落では、住んでいる人みんなに集まってもらって、地域の中に何があるか、海の暮らし、海の道具、漁の仕方、おばあちゃん達が引き継いできた知恵、道具、食べられる草。それらを写真をとって記録していくという活動を行っている。全員が関わることで、全員で地域の自然や文化、暮らしや日々の営みの豊かさが共有できるようになる。この試みに詳しくなれば、それぞれの人が自分の仕事に応用したり、産直やエコツアーなど新しいことを始めたりと、いろいろな活動が広がっていく。そうやって、子どもたちのための原風景が取り戻されていく。
 例えば、今までの「水辺は危ない きたない 近づくな」というような教育とは逆に「水辺に入れ、泳げ、生き物を捕まえろ」とやる。すると、子どもたちは、生きものと触れるのが楽しいので、さまざまな生き物、中には、サンショウウオを見つける子どももでてくる。そのワクワク感やドキドキ感を味わってもらうことが大切だ。子供たちは、地理の時間に地形を教えても覚えないけれども、地域の探検隊で,白地図に色塗りするのは楽しいようである。色塗りしながら地図と生きものの関係を体感し社会の一員となってゆく。
 大学と提携した活動もある。新潟大学は、常勤職員を配置し調査研究を継続的に行っている。獨協大学では、ここ数年継続して調査と保全活動に佐渡に来てくれている。60人で1週間の保全活動は、保全の成果もあがるし、地域との交流も盛んになる。
 秋田の鳥海山では紙芝居づくりから始めた保全活動の例もある。紙芝居や人形劇づくりの呼びかけは、これまで、活動に興味を持たなかった人々に、メッセージが届き、秋田では、植林する人の輪が広がったからだ。例えば、竹を伐るだけでなく、炭を焼いてみんなに配ったり、シイタケとりなどの里山の中での遊びをやると、おじいちゃんたちが熱中して、ゲートボールチームが、全員炭焼きチームになってしまったりする例もある。
 
 おじいちゃんやおばあちゃんたちのお話を聞くのも、集落の文化や技術、仕組みを残すのも、里地の保全活動の一環なのである。